ある人から、
「ホールドとコントロールは同じじゃないですか?」
と言われたことがあるけど、最初はそうかもな〜と思ってました。
自分自身は「ホールド」って言葉を使い始めたのは最近だったので、
この質問者の方と同じふうに感じたこともありました。
でも、なんとなく、それは違うんじゃないかと思っていたけど、
少しずつ霧が晴れてきたように思います。
まだぜんぜん視界良好ではないけど。
子どもが目の前にやってきて、たぶんわかることだと思います。
たぶん、やっていることは前と変わらないんだけど、
「ホールド」ってことを意識して観察できると思います。
こういう時って、自分自身に置き換えるとよくわかることがあります。
自分自身がホールドされているなぁ〜って感じる時と、
コントロールされてるな〜って感じる時と。
その2つを比べると、なんとなくわかるような気がします。
すみません。
ここまで書いて、なんだか「なんとなく」とか「たぶん」とか、
そんな言葉が多い(ニュアンスを感じる)とは思いますが、
そう、たぶんなんとなくそう思うんです。笑。
学習者側が「コントーロールされている」時って、
双方ともに自覚症状がはっきりとしていると思います。
学習者側はめっちゃやりにくく、
ファシリテーター側は終了後めっちゃど反省することになります。笑。
しかし、ファシリテーター側が「ホールドする」時と、
学習者側が「ホールドされる」時は、
これ、自覚症状あるのかぁ…って思いますが、いやあるんだと思います。
それはファシリテーター側は意図しているけど、
学習者側はけっこう意識できてないまま、
活動終了後に「あ〜めっちゃ楽しかった」とか、
「あ〜めっちゃ集中してた」とか、
「あ〜めっちゃ没頭してた」とか、
そんな感じで振り返られる時間と場が「ホールド」された時間と場なんだと思います。
では、そんな時間と場はどうやって生まれるの?と思うかと思いますが、
それはファシリテーター側が「意図した」からです。
ここらへんでたぶん「それはおかしい」とか、
「それはファシリテートではない」とか言われると思うんだけど、
「放任」とは違う意味での時間や場のつくりかたこそが
「ファシリテーション」だと思う今日この頃です。