西の魔女が死んだDVD上映会

西の魔女が死んだ [DVD]

西の魔女が死んだ [DVD]

冬休み初日、子供たちに募集をかけて、
西の魔女が死んだ」のDVD上映会を行いました。
視聴覚室の大画面スクリーンでの上映会です。
参加者は22人、うちのクラスは19人、その弟妹たちが3人。
そのうち読んでいたのは7人。
当初は「読んだ子だけ」の上映会にしようと思ったんですが、
それでは人が集まりそうになく…。
男の何人かは楽しそうだから…って感じの子も。


読んでいた子はもちろんのこと、
全員が清里の移動教室でロケ地を見学しているので、
それなりに思い入れはあります。
自分が見たものが、そのまま大画面に映し出されるのですから、
最初はおーっってなります。
前に「ライオンと魔女」を上映したときとはまた違った感慨です。


しかし…
場面が進むに連れ、
本を読んだ子と、そうでない子との差が出てきます。
いや…正確に言うと、「本を読める子」と「本を読めない子」の違いですね。
今回気付いた中で一番の収穫はこれです。
「本が読めない子は、映像も見れない」ということです。


途中、おばあちゃん(西の魔女)が、まい(主人公の女の子)に「たましい」について話す場面があります。
この話が感動のラストにつながる非常に大事な部分なのですが、ここで何人かの男の子が、立ち上がり部屋の外に…。えーっ??って思いDVDを止め、
「どうしたの?」
と聞くと、
「水飲みに行く」
と言う。
「一番大事なところだから、じゃあトイレ休憩にしよう…」
ということがありました。
この場面、本を読んでいなくても、
「あっ、ここは大事だなぁ」という匂いがぷんぷんするところで、
実際、ほとんどの子は食い入るように画面に前のめりになっていた。
私も。
でも気付かない子は気付かない。
この子たちは、読書家の時間もなかなか本の世界に入れず、
集中を切らし、友だちとすぐじゃれ合い読むことができない子たち。
この場面の前にも、心情を吐露するような静かな場面になると、
ざわざわしたり、がちゃがちゃ音を出したりする。
本を読むのと映像を見るのとでは、使っている力は違うけど、
大事な部分は同じだと思う。
「話の主題を読みとる(見とる)こと」
これができるできないで読み終わった(見終わった)あとに何かを生み出すことができるかできないかが大きく分かれる。
映画観た後って、一緒に見た友達と、
今見た映画について語り合いますよね。
一緒じゃなくても「あーおれも見た見た」っていう人とも。
本でも同じ。
映画作ってる人も、本書いている人も、
「何か」を伝えようとしているのに、
それを受け取ることができなければ、
その「何か」を自分と融合して、
新しいものを創造することはできない。
新しいものって?
それは、考え方であったり、生き方であったり、価値観であったり。
いや、単純に価値観か。
価値観変わると生き方や考え方変わるもんね。


「あっ、ここは大事だな」
「何か」に引っかかる部分が多い子は、
新しいものを生み出す力も強い。
何も引っかからない子は、
なかなか創造的に新しいものを構築していくことができない。
この引っかかる力って、どうやったら育つんだろう…
これが課題として残りました。
ある種のトレーニングが必要なんでしょうか?
それとも環境?
メソッドとして何かありますか?
引っかかることを前提として、
読書パートナーやリテラチャーサークルやってるけど、
これらの問題は、それ以前の問題で、
もっと根源的な原因と結果があるような気もします。
もんもんとしていても仕方がないので、
訳本をもう一度読み直してみようと思います。



この映画は、実に原作に忠実で、
ロケ地にあったおばあちゃんの家は、
綿密な設計図で原作の通りに再現されています。



ストーリーも、かなり原作どおりに追っていて、
梨木さんが伝えたかったことと、
監督の長崎さんが伝えたかったことは多分にリンクしていると思いました。
出演者のサチ・パーカーさんや高橋真悠ちゃんにもしっかり伝わっているなぁ〜と思いました。
この二人の会話や間は、原作とほとんどたがわないと思いました。
決して演技が上手だとは言えませんが、
伝わるものはスーッと伝わってきます。


子どもたちには、
「映画を先に見た人は、これから本に行ってみてください。本から来た人も、もう一度本に帰ってみてください」
と伝えました。
これから読むたび見るたびに、
また違った新しいものに出会えるんだろうなと思います。


ちなみに私泣きました。
本を読んだときは泣きそうになりましたが、
映画は涙を流してしまいました。
女の子は半分以上泣いていました。
先に本を読んだほうがいいと思います。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)