上杉賢士さんの手紙コネクション

大きな仕事はひとつ終わったので今日はちょっと休息日。
お酒飲んでネットしています。


以下の文をまずお読みください。



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こんにちは。上杉賢士です。


ここのところの私の関心は、
もっぱら「学びとは何か」という一点に向いています。
先生から教わって学ぶことも学び。
自分の関心があることを追求することも学び。
でも、この両者には天と地ほどの差があって、
この差をどう説得的に説明できるかが私の問題なのです。




先生から教わることには、正解があります。
だから、子どもたちは学んでいるふりをして、
実は正解探しをしているのです。
先生は、簡単に手の内を見せることはいけないと思っています。
その方がしっかり学べると信じているからです。
だから、発問をしたり教材を提示したりして考えさせようとします。
でも、子どもたちは先生が正解を知っていることを知っています。
だから、自分の頭で考えようとはしません。
だって、分からないことがあれば、
自分で考えるより聞いた方が手っ取り早いのです。




そして、悲しいことに、
それを早く察知できる子とそうではない子とが分断されます。
だから、子どもはわかりやすい授業を期待しています。
そして、正解の出し方を学ぼうとします。




でも、これはこれでおしまいです。
その先に自分の関心が広がることはめったにありません。
まして、生涯にわたって学ぶのだなんてと言われてしまうと、
億劫になるしかありません。
念のために細くすると、文部科学省がいう「生きる力」は、
この「生涯にわたって学ぶ力」のことを指します。




一方、自分の好奇心に基づいて関心があることを追求すると、
そのプロセスでいろいろなことが起こります。
いろいろあって網羅的に説明することはできませんので、
少し目先を変えて、好きな哲学者の小浜逸郎さんの説を紹介しましょう。
小浜氏は、著書『なぜ人間は働かなければならないか』(洋泉社)の中で、
次のようなことを言っています。
著書が今手元にないので、忠実な引用ではありませんが、
大筋では間違っていないと思います。
もし一生かかっても使い切れないほどの財産があったとしたら人間は働かないか。
いや、そうではないだろう。
贅沢三昧の暮らしの中で、いつか寂しさを感じるようになるはずである。
それは、人とのつながりが失われたことによる寂しさである。
つまり、人は働くことを通して、実はいろいろな人とつながっている。
そのつながりが失われると、人はたとえ巨万の富があっても満足できない。
働くことは、実はそれを通して多くの人々とつながる営みである。
これは、学びにも通じる原理なのだろうと思います。
学びとは、共同体の活動に参加することによって多くの人々と交わり、
そのことを通して自分らしさを獲得していく営みなのです。
仮に、先生が正解をもって子どもの前に立つのではなく、
共に学ぶ仲間として参加するのであれば、
そこにコミュニティが生まれます。
知っていることの大小で子どもたちが分断されるのではなく、
お互いに求めている者同士であることが判れば、
そこにコミュニティが生まれます。
そのコミュニティは、新しい地平を切り開くという意味において創造的で、
同時代を生きる者同士の共有財産を産み出すという意味において生産的で、
だれをも排除しないという意味において包摂的です。
競争から協奏へ。
分断から包摂へ。
教室で伝える学びの本質は、
社会のありように対する教師たちの提言であるべきだと、
私は思うのです。

上杉賢士

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【上杉賢士】(うえすぎ けんし)1948年生まれの典型的な団塊の世代です。教頭を含む小学校教員16年、教育行政11年半を経て、1999年から、千葉大学大学院教育学研究科教授です。所属は教育臨床学教室ですが、「臨床」を「具体」「個別」などと勝手に読み替えて、自分流を貫いています。2001年にアメリカで出会ったProject=based Learningの奥深さに惹かれて、多分その普及やPBL校の設立がワイフワークになるだろうと思っています。ブログを開設しています。→ http://blogs.yahoo.co.jp/pblminnesota/

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なんかすんなり入る。


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http://www.educational-future-center.org/tegami/index.html