料理18

仕送りを止められて、ロードの給料だけでは食えなくなってきたので、

もうひとつ、以前から単発でやってたバイトを、定期的に入れるようにしました。

それは、「山田電気工業所」というところの仕事です。

ヤマダ電機」ではなく、「山田電気」です。

新宿御苑前にある小さな電気工事屋さんですが、

取り引きしているところは、東急、ミノルタなど、けっこう大きなところでした。

ご近所の歌舞伎町の怪しげな店の電気工事もありましたが…。

ここで私は普通の大学生が経験できないことをたっぷりと体験することができました。

たくさんの人に会い、見聞を広げました。

と書くと、なんだか素晴らしい体験のように聞こえますが、

現実は、工事現場やその飯場でのことです。

時代はまさにバブル絶頂期です。

日本中が浮かれていた時代でした。

でも、この現場にはそんなきらびやかさは一切なく。。。

でも、とても生き生きとしていたのは確かです。

(続く)

料理17 怠学④

怠学シリーズが長く続くと気が滅入るので、

このあとの怠学のことを話すと、

4年で仕送りを止められたあと、4〜5年生で教科の単位はすべて取り終えました。

教育実習も4年生で附属小(小金井にしてもらえた。ラッキー(⌒▽⌒))、

5年生で協力校にいき、無事履修。

が、しかし、何故だか知らないけど、うちの大学は教員養成校なのに、

専攻学科があり、しかもそこのゼミは必修で、さらには卒論も必修。

でも私はほんとうんちなので、そこのゼミには数回しか行かず、

担当の教授とも仲違いしてしまっていました。

卒論も書いたは書いたんですが、結局提出するのも憚られ、

結局卒論の単位だけを残して6年生の留年が決まりました。

6年生になってもゼミには参加せず、卒論をそっと提出期限の日に出して、

なんとか卒業することができました。

先生、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。

もう鬼籍に入られましたが、感謝しています。

 

卒業して、就職のあてもなかったので、

卒業後の1年間はほぼ廃人でした。

 

仕送りを止められた大学4年生の途中から、

この大学5年生、6年生、卒業後の廃人の1年間を合わせた3年半は、

私の人生のグレーゾーンです。いや、真っ黒かも。

何をしていたかはとてもじゃないけど人には話せません。

 

ということで、怠学シリーズは終了です。

(続く)

 

料理16 怠学③

教育実習を途中で放棄した時点で、大学5年生が決定しました。

さらに言うと、大学3年生の1年間で、たったの2単位しか取れませんでした。

この時点でも、どうがんばっても4年間で卒業に必要な単位をすべてとることは不可能でした。

留年決定です。

大学を辞めて、料理人になると本気で思っていましたが、

それも無理なんだろうな…と時間が経つうちになんとなく思えるようになってしまいました。

 

なんのために大学にいるのか、よくわからなくなりました。

それでも、ロードの仕事はずっと続けていました。

自分の包丁も、その当時の彼女に、誕生日のプレゼントで買ってももらいました。

吉祥寺東急の中にある包丁の専門店で、「木屋」という包丁銘店のペティナイフです。

これは30年以上たった今でも愛用しています。

よく切れる。

 

大学4年生の途中で、あまりの怠学ぶりに、実家からの仕送りが止まりました。

ここから生きていくのが大変になってきました。

(続く)

働かないふたり

昨年度は1冊も教育書を読みませんでした。

昨年度だけではなく、もう数年間教育書は読んでいません。

これはもしかしたらすごいカミングアウトなのかもしれない。笑。

 

マンガはいっぱい読んでいます。

この冬休みはこのマンガにはまっていました。

2022年のナンバー1はすでに決まりました。

これです。

 

やさしい人になりたいです。

謙虚で、つつましくありたい。

世の中の人、みんないい人だと思える人になりたい。

自分の思い通りにいかないことが、その人の欠点ではないはず。

自分の思いとは違っていても、その人の一生懸命さに気づいてあげたい。

 

2014年からこれまで24巻出ています。

人を守れる人は強いよね。

そして、人を守れる人はやさしい。

 

 

 

 

明けまして。

明けましておめでとうございます。

旧年中はお世話になりました。

 

風越学園が開校してからは、このブログも教育的なことはほぼ何も書かずにきました。

何か、もう、そんなエネルギーがない…というか、

そんなことをやることに面白みも、楽しさも、意味も感じられなくなってきてしまいました。

 

今までは、

誰かにどう思われるかってことをけっこう楽しんで書いてきたんだけど、

今は、

誰かにたぶんこう思われるんだろうなということが怖くて書けないでいます。

それはブログでのことだけじゃなくて、実生活でもそうなんだなと思います。

 

なんかめんどくさい。

 

なので、このブログものんびりと書きたいときに書きます。

今書いているお料理シリーズは迷走中ですが、

迷走していた大学生時代を振り返って楽しみながら書いていきます。

ちょっと、身の回りのことも書こうかなと思います。

 

本年もよろしくお願いします。

 

料理15 怠学②

日々スポーツとバイトに明け暮れ、毎日を過ごしていました。

ロードの営業時間はAM2:00まででしたので、

片付け終わって店を出る頃には3:00を回っています。

家に帰って寝て、朝起きて1限の授業に出るというのは若い時分にはとてもじゃないけど無理な話でした。

普通に帰ればまだいいのですが、半分くらいは本店に行ったり、

小金井の朝までやってる飲み屋に行って飲んでたり、

その飲み屋(主に鬼無里)の人たちとまた国分寺の飲み屋に行ったりとかしてたので、

学業はますますおろそかになっていくわけです。

 

秋に教育実習がはじまりましたが、

満員電車に乗るのが嫌で嫌で、

小平から世田谷までスクーターで行きました。

2日目、スクーターを停めた等々力公園からまったく足が動かず、

公園でBMXに興じる人たちを1日ぼーっと眺めていました。

私は初日に1回行ったっきり、

附属校での教育実習に行くのをやめてしまいました。

 

自分は、何がしたいんだろう…

とかそんなかっこいいことなんかこれっぽちも考えていなくて、

あー、めんどくせー

とずっと思っていました。

(続く)

 

 

料理14 怠学

3年生になって、サークルの部長になりました。

「レクレーションスポーツクラブ」略して「レクスポ」といいます。

私が入った時に、創部8年目でした。

ですので、私は第10代部長ということになります。

もともとは、体育会の方々がつくったサークルでした。

体育会の「チャンピオンシップ」偏重の体質を嫌った方々が立ち上げたそうです。

チャンピオンシップを否定しているわけではありません。

スポーツの楽しさは、勝つこと以外にたくさんあるよね、

強い人しか楽しめないってことは絶対ないよね、

スポーツの楽しさは、あらゆる人々に等しく享受されるべきであって、

何か特権がある人々だけのものではない、

というような理念のもと活動していました。

部員は100人を超えていました。

まったくのスポーツ初心者や、体に運動制限のある人から、

高校ではバリバリにやってたけど、大学では純粋にスポーツを楽しみたいという経験者まで、

多種多様な人たちが集っていました。

月曜日…バレーボール

火曜日…バドミントン

水曜日…ソフトボール

木曜日…バドミントン

金曜日…部会

土曜日…バスケットボール

単発的に、

夏休み…キャンプ、上のスポーツの合宿

クリスマス…オールナイトスケート

春休み…スキー合宿

などなど、部員は自分が参加したいものに自由に参加します。

インストラクターは経験者が務め、初心者に丁寧に技術指導してくれる。

 

まあ、こんな感じで楽しくやってましたが、

体育会からはめっちゃ目の敵にされていて、

学園祭の時(うどん屋営業)にはいつも体育会の人たちから襲撃をくらっていました。

嘘みたいなホントの話。

 

サークルのほうも忙しくなって、

このころから講義、授業にはあまり出なくなり始めました。

(続く)

 

 

あ、余談ですが、

卒業して30年くらいして、

勤務していた学校に、私の行ってた大学の教育実習生が来て、

その子に「レクスポってまだある?」って聞いたら、

「あー、あの飲みサーのですか?」とにやけ顔で聞き返され、

衝撃を受けた次第です…

めっちゃまじめにスポーツのことを考えて日々自分たちでつくり上げていたのに…

飲みサーに成り下がっていたとは…(T . T)